2009年5月1日金曜日

『動的平衡』 福岡伸一


福岡伸一氏という分子生物学者(『生物と無生物のあいだ』の著作者として有名)が、分子レベルでの生命の営みを分かり易く示した本です。
タンパク質の分解・吸収といった科学的なテーマが、「生きる」とは「学ぶ」とは、という哲学的なテーマにつながっていくので、もうたまりません。

子供の頃の1年に比べて、年をとってからの1年は何故速く感じるのか。
分子的な整理でいくと、”分子の代謝回転”が異なるから、ということになるそうです。
子供の頃は代謝が活発なので、同じ1年間なら大人よりも分子の回転が早くなります。
大人よりも回転数が多いことが、1年を長く感じることにつながっている(分子の代謝回転により時間経過感覚がことなる)ということです。

『人間は考える管である』
といういい方でタンパク質の循環という生命の営みを表現しています。
食物を飲み込んだ瞬間にカラダの一部になるわけではなく、分解吸収されて初めて”自分のカラダ”になるというごく当たり前のことに気づかせてくれます。
(これはお酒を飲み過ぎて”戻す”時にも痛感しますが)

”You are what you ate.”
というテーマでは、食の安全にもっと消費者はコストを払うべきであるという提言をしています。

生命と機械との違いは何か。
「生命の仕組み」と「機械のメカニズム」の違いを読み解く一つの鍵は”時間”だろう、としています。
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基本的に,機械の組み立て方において、時間の順序は関係しない。
2万数千種類のミクロな部品(タンパク質)を混ぜ合わせても生命は立ち上がらない。それはどこまでいってもミックスジュースでしかない。
全体は部分の総和以上の何ものかである。
プラスα部分を「生気」のようなものととらえるとオカルティズムに接近する。
もちろん生気などというものはない。だが、プラスαはある。プラスαは端的にいえば、エネルギーと情報の出入りのことである。
生物を物質のレベルからだけ考えると、ミクロなパーツからなるプラモデルに見えてしまう。しかし、パーツとパーツの間には、エネルギーと情報がやりとりされている。それがプラスαである。
生命現象のすべては、エネルギーと情報が織りなすその「効果」の方にある。
テレビを分解してどれほど精緻に調べても、テレビのことを真に理解したことにはならない。なぜなら、テレビの本質はそこに出現する効果、つまり電気エネルギーと番組という情報が織りなすものだからである。
そして、その効果が現れるためには「時間」(正確には「タイミング」)が必要なのである。
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ES細胞についても”空気の読めない細胞”という分かり易い比喩でその本質を説明しています。
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ES細胞(エンブリオニック・ステムセル:胚性幹細胞)
初期胚の段階では、それぞれの細胞はどんな細胞にもなりうる万能性(多機能性)をもっている。
各細胞はそれぞれ徐々に専門化の道を歩み始める。この分化はどのように決定づけられるのか。
それぞれの細胞は、将来何になるか知っているわけでもなく、運命づけられている訳でもない。また、指揮しているものがいる訳でもない。あえて擬人的な喩えをすれば、各細胞は周囲の「空気を読んで」、その上で自らが何になるべきか分化の道を選んでいるのである。
各細胞は、細胞表面の特殊なタンパク質を介した相互の情報交換(すなわち「話し合い」)によって、それぞれの分化の方向について、互いに他を律しながら分化を進めて行く。そして、このプログラムは常に進行する。つまり細胞は「立ち止まる」ことがない。
空気が読めない、しかし増えることをやめない細胞、それがES細胞である。
エバンス博士が「ES細胞を樹立した」というのは「分化の時計をとめたままでいられる」細胞を得たということ。
1981年のことである。
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病原体は本来「分子の相補性」により種を越えて伝染しないはずのものです。
だから同じ種であるヒトを食べちゃいけないよ(カニバリズムは危険だよ)、という訳なんですが、今流行の豚インフルエンザなんかはその種の垣根を越えてしまっているわけです。
だから当然免疫なんかもないし、これが強い毒性をもっていたら大変な事態となります。


私たちの細胞内にある”ミトコンドリア”(ギリシャ語で『綾なす微粒子』)は実はもともと別の生命体で、ミトコンドリアとその宿主細胞は相互恵与によって共生しているそうです。(ミトコンドリア周囲の二重の細胞膜はミトコンドリアが取り込まれたことの痕跡。瀬名秀明の『パラサイト・イブ』はこのミトコンドリアの反乱がテーマ。)


「生命とは」何か。もう哲学です。
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生命とは何か。
20世紀的な見方を採用すれば「生命とは自己複製可能なシステムである」となる。
しかし、この定義には、生命が持つ、もう一つの極めて重要な特性がうまく反映されていない。
それは、生命が「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」という古くて新しい視点である。
「生命とは、動的な平衡状態にあるシステム(dynamic equilibrium)である」
可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。
一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ平衡を維持できる。
このように考えるとサスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではないのが自ずと知れる。

科学は人間にとって不可能なことも教えてくれた。それは時間を戻すこと。つまり、自然界の事物の流れを逆転することは決してできないという事実である。これが「エントロピー増大の法則」である。
エントロピーとは「乱雑さ」の尺度で、錆びる、乾く、壊れる、失われる、散らばると同義語と考えてよい。
秩序(「美」あるいは「システム」)あるものは全て乱雑さが増大する方向に不可避に進み、その秩序はやがて失われていく。
すべては、摩耗し、酸化し、ミスが蓄積し、やがて障害がおこる。
生命はそのことをあらかじめ織り込み、一つの準備をした。
エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまり「動的平衡」(dynamic equilibrium)である。
長い間、「エントロピー増大の法則」と追いかけっこをしているうちに少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追い抜かれてしまう。つまり秩序が保てない時が必ずくる。それが個体の死である。
ただ、その時はすでに自転車操業は次の世代にバトンタッチされ、全体としては生命活動が続く。
現に生命は地球上に38億年にわたって連綿と維持され続けてきた。だから個体というのは本質的には利他的なあり方なのである。
すべての生命が必ず死ぬというのは、実に利他的なシステムなのである。これによって致命的な秩序の崩壊がおこる前に、秩序は別の個体に移行しリセットされる。
「生きている」とは「動的な平衡」によって「エントロピー増大の法則」と折り合いを付けているということである。
換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している。
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最後に「何故学ぶことが必要なのか」。
『下流社会』で内田樹さんが
「教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度まで進行するまで言うことができない。」
すなわち、学んでみないと何故学ぶことが必要なのかわからない、と言っていますが、福岡教授は生命としてのヒトという立場から学ぶ必要性を以下のように述べています。
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「何故学ぶことが必要なのか」それは「私たちを規定する生物学的制約から自由になるため」である。
私たちが、この目で見ている世界はありのままの自然ではなく、加工され、デフォルメされているものなのだ。デフォルメしているのは脳の特殊な操作である。ことさら差異を強調しわざと不足を補って観察すること、ランダムに推移する自然現象を無理にでも関係つけることが、長い進化の途上、生き残るうえで有利だったからだ。
今や、私たちの目的は、生存そのものではなく、生存の意味を見つけることに変わった。ところが、かつて私たちが身につけた知覚と思考の癖はしっかりと残っている。
「直感に頼るな」その誤謬を見直すため、あるいは直感が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ勉強を続けるべきなのである。それが私たちを自由にする。
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う〜ん、科学と哲学の融合したようななんとも素晴らしい本でした。
合掌。

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