2009年8月16日日曜日

『日本の難点』

宮台真司氏の新書。相当前に一度読み終わっていたのだが、まとめてみたくて何回か再読しました。
教育、アメリカ、日本などテーマごとに宮台氏の考え方が述べられています。
各項目とも、いくつかの宮台氏の基本原則から導き出されるのですが、その基本原則が非常に抽象的で、それを漠然とでも理解するまでが非常に時間がかかります。(まだ理解しきれてないかも)

<システム>と<生活世界>と「社会的包摂性」「ポストモダン化」「底が抜けた」、というキーワードがあるのですが、概念が非常に抽象的です。
以下は具体論に落とし込んだ時に出て来た宮台氏のキーワードの使い方です。これからある程度の定義的なものを抽出するしかありません。

・<システム>の全域化による<生活世界>の空洞化がすすむと社会的包摂性は失われる。
・”社会の「底が抜けて」いること”を気づかせた理由は「郊外化」です。「郊外化」とは<システム>(コンビニ・ファミレス的なもの)が<生活世界>(地元商店的なもの)を全面的に席巻していく動きのことです。
・社会の「底が抜けている」という事実と、その事実に気づいてしまうということは,別の事柄です。「ポストモダン化」という場合には後者を意味します。
・「役割&マニュアル(計算可能性をもたらす手続き)」が支配する<システム>と、「善意&自発性(アドホックな文脈)」が支配する<生活世界>との伝統的区別とは次の通りです。<生活世界>を生きる「我々」が便利だと思うから<システム>を利用するのだ、と素朴に信じられるのがモダン(近代過渡期)です。<システム>が全域化した結果、<生活世界>も「我々」も、所詮は<システム>の生成物に過ぎないという疑惑が広がるのがポストモダン(近代成熟期)です。
ポストモダンでは、第一に、社会の「底が抜けた」感覚(再帰性の主観的側面)のせいで不安が覆い、第二に、誰が主体でどこに権威の源泉があるのか分からなくなって正当性の危機が生じます。不安も正当性の危機も「俺たちに決めさせろ」という市民参加や民主主義への過剰要求を生みます。
・<システム>の外にある目標〜<生活世界>を生きる「我々」〜のために<システム>が手段として利用されるのではなく、<システム>が作り出した課題である”理想の私”のために<システム>自体が応えるというマッチポンプ=再帰性が、多くの人々の目に露になった。
このような「正統性の危機」は「批判の危機」でもあります。かつては主体や人間や伝統を基準に<システム>を批判できましたが、再帰性が可視的なポストモダンでは無理になります。


最後まで通読すると何とはなしに「こういう意味か?」と推察できなくもないのですが、やはり最初に自ら利用する言葉の定義をある程度示してもらえるともっと分かり易い気がします。

J・S・ミルの「他害原理と愚行権による自由の定義」の考え方(他者を侵害しない限り愚行といえども許容される。別名「自己決定権」)を発展させて、共同体における自由に発展させた「共同体的自己決定」という考え方は新鮮で面白いと思いました。
他者や他共同体を侵害しない限り共同体的愚行も許容されるというのが「共同体的自己決定」という考え方です。
今日のように高度技術のアーキテクチャの上に乗らざるを得ない社会においては、(事前の)予測不能、(目下の)計測不能、(事後の)収拾不能という性質があり、だからこそ、共同体的自己決定、市民政治が必要だというものです。

他にも色々な意見があって、
「マスメディアの凋落は、お茶の間や井戸端に相当する「場」がなくなったから。お茶の間や井戸端のコミュニケーションを支える共通前提を供給するメディアも不要になるのは当然。」
という宮台氏の論点は成る程と思わせます。

共感できる考え方も多く、抽象的な原則から導き出される”宮台ワールド”の考え方は知的にとても面白いのですが、もうちょっと分かり易い工夫があって一般的にもわかりやすいと更に良いと思いました。

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